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 所在地 三重県伊賀市下友田
 形式  山城
 現状  山林
 築城年代  戦国期
 遺構  曲輪・土塁・虎口
 主な城主  山内左衛門尉
 見所  主郭
 おすすめ度  ★★★
整備された道   有り
主郭まで   登城口より30分
登城難易度  3
駐車場   山麓登山口に広場あり

雨乞山城主郭
雨乞山山頂部に位置する
 
 アクセス
伊賀上野方面から名阪国道・下柘植IC出口で降りて左折し県道133号(伊賀甲南線)に入ります。
道なりに3.5 km進み、T字の交差点を左折して県道673号に入ります。
350 mほど進んだところに山麓の集落に入る三叉路があるので右折して集落内の道に入ります。
270mほど進むと雨乞山城登山口の看板があるのでそれに従い左折し100mほど進んだ所に駐車のできる大きな広場と登山口があります。
登城口位置 ページ下部にマップ添付


 訪城記録
雨乞山城は山麓集落から比高約100mの山頂部に山上曲輪群、山麓部には腰曲輪群が展開する二重構造となっています。
山頂から延びる支尾根には山内氏城・竹内氏城・寺坂城等が存在し、それらを一括して雨乞山城館群とも呼ばれます。
登山口からは急ではあるものの歩きやすい遊歩道が続き約30分で山上の主郭
に到達します。
主郭の北部はやや欠損で崩落していますが、元は正方形に近い形状であったことが伺えます。
山頂部から西にかけての曲輪
は切岸、及び平坦部の造成が甘く形状が掴みがたいですが西端部に枡形状の虎口が開口します。
主郭西の尾根は搦手口としての役割を果たしていたと考えられます。
一方、遊歩道沿いの東の尾根に位置する曲輪
は平坦部及び切岸の造成がしっかり行われています。
登山口に向かい遊歩道を下っていくとやがて、山麓腰曲輪群が見えてきます。尾根はU字状に二手に分かれ、遊歩道沿いの東側の尾根には腰曲輪群
と、その下部に登り土塁状に尾根を加工した道が作られています。登り土塁降ってみると広い空間に出ますが、ここは福森氏館跡と推定されています。東側の尾根は腰曲輪群⑦⑧が連続し、現在の遊歩道と重複するようにあった、大手道からの侵入者を警戒する縄張りとなっています。
雨乞山城は伊賀に多い土塁囲みの方形城館とは一線を画し、山上に主郭を置き腰曲輪を並べるという一般的な山城の形態となっています。
縄張り図 掲載書籍 
サンライズ出版『三重の山城ベスト50を歩く』182~185ページ

2020年11月26日訪城

 歴史
城主は『伊乱記』は山内左衛門尉とする。
当城が位置する伊賀市下友田一帯は平安・鎌倉時代には東大寺の荘園・鞆田荘があったが、室町時代には在地国人が横領し鞆田荘は消滅した。
戦国時代には在地国人・山内氏が近江守護六角氏と被官関係を結び、雨乞山の山麓に山内氏をはじめ、一族の土豪が城館を築き下友田一帯を治めていた。
天正7年9月、織田信雄が伊賀に攻め込んだ第一次、天正伊賀の乱では伊賀国衆が大勝した。しかし、山内氏一族は織田方の再攻を危惧し神事に使われていた雨乞山の山上一帯に雨乞山城を急造した。
天正9年織田方が大軍を動員した第二次天正伊賀の乱では、蒲生氏郷率いる7千の織田方が来襲し伊賀の国衆は雨乞山城で激しく戦ったと『伊乱記』に記されている。
本能寺の変の後、天正10年11月には伊賀の牢人衆が雨乞山城に立て籠もり、織田信雄の配下である滝川三郎兵衛らが雨乞山城を攻めた。
従軍していた織田信雄の家臣・小川新九郎の覚書には「雨乞山城の外城が強く」と苦戦したことが記されている。
この「外城」にあたるのが山麓の城館群であると言われる。
賤ケ岳の戦いの後、天正12年には伊賀は大きな抵抗もなく秀吉により平定されており雨乞山城も廃城となったと考えられる。

 

おすすめ度はが多いほど見ごたえがあり、最高★★★★★まで
登城難易度は数値が多いほど城へ到達する距離、
時間、困難さを示します
数値1~5
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上記 データの 説明       



主郭西尾根の曲輪群
削平、切岸の造成が甘い

主郭東尾根の曲輪群
削平・切岸が明瞭
 

山麓部東尾根の曲輪群
麓部にも腰曲輪が展開
 
登り土塁
尾根を加工し登り土塁としている
 
 
山麓東尾根の広い空間
福森氏館跡か?
 
 
山麓部西尾根の曲輪群
腰曲輪群が連続する
 
山麓部西尾根の曲輪群
腰曲輪群が連続する
 
雨乞山城登城口