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 所在地 兵庫県三田市東本庄
 形式  山城(標高291m・比高115m)
 現状  山林
 築城年代  戦国期
 遺構  曲輪・土塁・堀切・竪堀
 主な城主  浜田安芸
 見所  主郭西の土塁
 おすすめ度  ★★
整備された道   なし
主郭まで   登城口より25分
登城難易度  4
駐車場   なし

本庄丸山城遠望 
登山道は整備されていない。
 アクセス
三田西ICを降り、三田西インター前交差点を左折し210 m進みます。テクノパーク前(交差点) を左折して2.0 km先の交差点を右折します。160 m先の交差点を右折して県道309号線に入ります。2.8 km先の交差点を左折し(T字路)140 m進みます。斜め右に曲がり、フェンス沿いの道を270mほど進みます。突き当りを右に曲がって30m進んだ所を左に70mほど進んだ所を左に30mほど進んだ場所に害獣防止扉があり、それを開いて山上の城へと向かいます。整備された道はありません。
 訪城記録
本庄丸山城は三田市北部の東本庄にある城山(標高291m比高115 m)に築かれています。
城址までは直登を余儀なくさせられ、尾根は広範囲に広がっていることからコンパス等を用いて慎重に登られるのが好ましいかと思われます。(2020年12月17日訪城時)
縄張りは、山頂から南と南東の尾根に4つの曲輪群を連郭的に配置し、随所に堀切や竪堀、高い切岸を用いて区画しています。
山麓から約20分ほど山頂を目指して歩くとやがて、尾根両サイドの側面に落ち込む竪堀
が見えてきます。
ここからは城道が残り、それをたどって主郭まで向かうことができます。東方向に向かう城道を進むと最下段の曲輪、四曲輪
に入ります。東側に延びる尾根に対しては堀切で遮断し城域を区画しています。
その北西の高い切岸上が三曲輪
になりますが、三曲輪の北東端部は登り土塁となって北側に位置するニ曲輪へと向かうルートになっています。
ルートは堀切等
で屈折され直進してニ曲輪へと上がれないように工夫がされています。ニ曲輪は南北に長い長方形で北側にある主郭との間は堀切で区画されており、当時は木橋を用いて往来していたかもしれません。最高所に位置する主郭は南北に長く、北側背後の山塊とは土橋を付属させた堀切が用いられ完全に遮断されていません。

2020年12月17日訪城

縄張り図 掲載書籍 
戎光祥出版『図解近畿の城郭Ⅲ』404~407ページ


 歴史
『有馬郡誌』等の地誌によると城主を森鼻越前守とする。
本庄丸山城のある東本庄および上本庄一帯は平安時代から京・醍醐寺の荘園、野鞍荘であった。南北朝期以降、在地勢力等の押領が続き、15世紀半ばには、ほぼ醍醐寺の荘園支配は終わったとみられている。森鼻氏の名は有馬郡内に播磨・広峯神社の信仰を広めた神職(御師)の林家長が文明10年(一四七八)に記した「檀那村注文」の中に一族衆・被官衆を率いた土豪として登場する。また時代は降って永禄13年(1570)には播磨・清水寺に越前守重頼と左衛門大輔の名で田地二段を寄進している。戦国時代を通して当地での活動がわかり、有馬郡守護赤松氏の家中に森鼻氏は包括されていたのではないだろうか。荒木村重が有馬郡・赤松氏を粛清した後は森鼻氏の名が登場しなくなる。

登城口位置 ページ下部にマップ添付
 
おすすめ度はが多いほど見ごたえがあり、最高★★★★★まで
登城難易度は数値が多いほど城へ到達する距離、
時間、困難さを示します
数値1~5
上記各種データの説明はコチラをクリック→
上記 データの 説明      

竪堀 
尾根両サイドに竪堀がある。

四曲輪
最下段の曲輪
 

四曲輪東尾根の堀切 
東の尾根は堀切で遮断
 
三曲輪
高い切岸上に築かれる。
 
三曲輪の登り土塁
上位の曲輪への移動経路 
 
三曲輪北の堀切
堀切で通路を屈折させる。
 
ニ曲輪
城址中央に位置する。

ニ曲輪北の堀切
  主郭手前の堀切
 
主郭
南北に長く北に土塁がある。
 
南出丸
北の山塊への脱出ルートか
 
本庄丸山城 登城口位置