
①南東端の堀切
南東端は巨大な堀切で守備する。
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六甲北有料道路終点から、神戸三田インター北交差点を右折し県道95号に入ります。1.2 km進んで弥生が丘6丁目の交差点を右に右折し県720号に入ります。約3.7km直進し、えのき橋公園前交差点を右折します。
750m先の交差点を左折し、その先の450m先の交差点を右折します。120m先の交差点を左折して300mほど進むと太陽光パネルの設置された旧野球グランドがあります。城跡は旧野球グランドの北側の丘陵上にあります。
旧野球グランドの北東端に北に延びる細い未舗装の道がありますが、その道がはじまる手前から直登しました。
直登城口位置 ページ下部にマップ添付
桑原城は旧グランドの北の丘陵上に位置し、北西から南東に向けて伸びる尾根筋に3つの曲輪群が展開します。緩斜面の続く南東部は、巨大な堀切①で遮断しています。もっとも南東に位置するのが三の曲輪で堀切に沿った南東端部には櫓台②を上げています。三の曲輪③は上下2段で構成され、南西側には虎口④が開口し大手道があったと推定されます。三の曲輪の北西に位置するのが城域の中心部にあたる二の曲輪⑤になります。その間は空堀と土塁⑥で仕切られ、土塁は中央部が凸状に三の曲輪側に突き出しており横矢枡形のような形状となっています。その北西にあるのが主郭⑦となりますが、二の曲輪同様に中央部を凸状に張り出させた横矢枡形の形状の土塁⑧と空堀⑨で区画されています。それらの規模は二の曲輪よりも堀は深く、土塁は高いものとなっており中央部の凸状に張り出した土塁上は櫓台として機能したものと考えられます。主郭内部は低い段差を設けて区画されています。
2020年月日訪城
縄張り図 掲載書籍
戎光祥出版『図解近畿の城郭Ⅱ』413~415ページ
南北朝時代に播磨・赤松氏の一族、赤松家則が築いたと伝わり、室町時代末期には桑原左衛門清正が城主であった。桑原氏は有馬郡分郡守護・赤松氏の被官であったと考えられる。
天正年間に入り織田信長の家臣、荒木村重が有馬郡守護の赤松氏を駆逐した。三田は村重の宿老・荒木重堅が支配する所となり、桑原氏もそれに従ったと思われる。天正6年には荒木村重が織田信長に背き、荒木重堅の籠る三田城は付け城を構えられ羽柴秀吉に包囲された。荒木重堅は降伏・投降した。三田が織田方支配となると地元住民を諸役を免除の上還住させるため、桑原次右衛門尉の名で制札が出された。
桑原氏は秀吉に従い生き残った可能性も高いが、これ以降、桑原氏の名が史料に登場することはない。桑原城の現況は数度に渡る改修を経た可能性が高い。本来は最も高い位置にあった一曲輪ないし二の曲輪を主郭とする中世的な縄張だったのではないだろうか。土塁と堀によって3つのエリアに区画分けされ、横矢枡形を代表に見られる横矢掛けなどを含む構造は、荒木氏支配下以降に求めるべきだろう。
おすすめ度は★が多いほど見ごたえがあり、最高★★★★★まで
登城難易度は数値が多いほど城へ到達する距離、
時間、困難さを示します。数値1~5
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