
①森本城遠望
愛宕山から延びる尾根に築かれる。 |
現在、森本城は地権者の意向により立ち入りが禁止されています。(2022年4月)
森本城は武庫川東岸の愛宕山から延びる尾根先端部(標高227m・比高40m)①に築かれています。縄張りは横堀と堀切で囲まれた主郭と、堀切で隔てられた西側に、二の曲輪が位置します。二の曲輪②は周囲と背後を土塁で囲み、祠が祀られています。南西部の土塁の端部は祠への参拝道として後世に削られた模様です。二の曲輪北東が主郭になりますが、その間は堀切③で遮断されています。主郭までの明確な道が付けられていないことから、当時は木橋によって往来していたものと推察されます。主郭④は東西に長い長方形の曲輪で北東部に土壇⑤があり櫓台として使用されていた可能性があります。主郭の背後、愛宕山方面の尾根と斜面は堀切⑥と竪堀⑦で遮断されており、堀切の堀底は南側にある横堀⑧へと繋がっています。
横堀⑧の南側には東西に帯曲輪⑨が造成されていますので、横堀内を塹壕として使用していた可能性も考えられます。
2020年12月27日訪城
縄張り図 掲載書籍
三田市『三田市史 第3巻 古代・中世資料』594~596ページ
森本城に関する史料および伝承はない。
駐屯地として削平される区域は主郭とニの曲輪の2つで、縄張りは堀切・横堀・竪堀等で主郭を厳重にを守り、比高の低さを防御パーツでカバーする意思が見える。削平地に対して防御パーツの量が、やや過剰とも思える縄張は三田地域の在地系城郭には見られない傾向である。
当城の北西に国人・森鼻氏の本庄丸山城がある。
森鼻氏は有馬郡・赤松氏の被官であったと推察され、永禄13年まで活動していたことが史料より確認できる。『播磨清水寺文書』
天正年間、主家である有馬分郡守護・赤松氏は荒木村重によって滅ぼされたと伝えられる。『寛永諸系図伝』
赤松氏の被官・森鼻氏も赤松氏と行動を共にしたと考えれば、本庄丸山城が荒木村重の軍によって攻められた可能性もあろう。その際に荒木方の付城として構築されたのが森本城であったのではないだろうか。
おすすめ度は★が多いほど見ごたえがあり、最高★★★★★まで
登城難易度は数値が多いほど城へ到達する距離、
時間、困難さを示します。数値1~5
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