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 所在地 兵庫県三田市大原
 形式  平山城(標高165m・比高10m)
 現状  神社・山林
 築城年代  鎌倉時代
 遺構  曲輪・土塁・堀切
 主な城主  大原宗隆
 見所  主郭
 おすすめ度  ★★★
整備された道   有り
主郭まで   登城口より5分
登城難易度  2
駐車場   広場に駐車可能

大原城遠望 
比高10m程の丘陵に築かれる。
 アクセス
六甲北有料道路を三田方面に向け終点まで走り神戸三田インター北
交差点を直進します。
600m先の池尻交差点を右折し、県道356号に入ります。
2.8 km先の松山堤交差点を右折して 県道141号 に入ります。
220 m先の総合庁舎前交差点を左折し約1km先の川除西交差点を左折して 国道176号 に入ります。
600 m先の大原交差点を右折します。
約200m先の十字路を左折すると左手に広場があり、その正面の丘陵上が大原城です。広場の奥に主郭に鎮座する姫山神社への参拝道があります。

 訪城記録
大原城は武庫川東岸の小丘陵上(標高165m・比高10m)に築かれ、主郭に鎮座する姫山神社の参拝道を利用して登ることができます。大原城の縄張りは姫山神社がある主郭と、その東に堀切を隔てて築かれる副曲輪。主郭の東側に二段の腰曲輪を形成する縄張りです。
現在、大原城が位置する丘陵の周囲は畑地や住宅になっていますが、周囲は水堀によって囲まれていたと伝えられます。
参拝道を歩くと途中右手に堀切が見え、その先に主郭への出入り口があります。
主郭への虎口は正面の土塁に阻まれて一折れして入る構造となっています。これは近年発掘された松原城と類似し大原城は北摂地域の土豪が築いた城郭の標準指標と考えられています。
主郭は長方形の形状で中心部に大原宗隆の娘を祀る姫山神社があります。南東には土塁と高い櫓台があり、虎口からの侵入者を監視していたものと推察されます。主郭の東側は副郭となりますが堀切で隔てられ、当時は木橋で主郭と連絡していたものと考えられます。副郭内は現在、竹林地となりその東端は削りとられ当時の状況は不明となっています。主郭の西側には2段の腰曲輪が造成されています。
最下段の腰曲輪は土塁で囲まれ、西側中央部が開口した虎口になっていおり、曲輪全体を枡形虎口とする考え方もあるようです。その先に小さな削平地があり住宅街が迫っていますが、大原城が機能していた頃の大手門がこの位置にあったといわれます。

2008年12月11日・2021年1月7日他 訪城

縄張り図 掲載書籍 
戎光祥出版『図解近畿の城郭Ⅲ』397~399ページ 

 歴史
大原城は文永年間に紀伊より当地に開発領主として来往した、大原宗隆が築いた。宗隆は大原村・川除村の二カ村を領有し、大原城の北東に菩提寺・青原寺を建立した。青原寺には宗隆の娘が父の菩提を弔うために写経したといわれる『大般若経』が残されている。また、当地には宗隆の娘の悲話、「大原のお姫様」という民話が語り伝えられている。
大原氏は戦国時代に至るまで当地一帯を領有していたが、天正年間に荒木村重により攻め滅ぼされたと『青原寺縁起』は記す。大原氏が居城としていた当城は比高も低く地域との結びつきも強かったと考えられ、開発領主から在地の国人へと姿を変えていったことが伺われる。天正年間に荒木村重により滅ぼされたといわれる通り、現在残る縄張りは戦国時代末期の様相を今に伝えている。
登城口位置 ページ下部にマップ添付
 


おすすめ度はが多いほど見ごたえがあり、最高★★★★★まで
登城難易度は数値が多いほど城へ到達する距離、
時間、困難さを示します
数値1~5
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上記 データの 説明       




主郭と副郭間の堀切 
現在は切通道として使われる。

主郭虎口
一折れして入る虎口。
 

主郭 
姫山神社が鎮座する。
 
主郭櫓台
虎口脇に築かれる。
 
 
最下段の土塁囲みの曲輪
周囲は土塁と切岸で囲まれる。 
 
大原城登城口位置