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 所在地 兵庫県三田市中内神
 形式  平山城(標高210m・比高30m)
 現状  山林
 築城年代  戦国~織豊期?
 遺構  曲輪・土塁・横堀・竪堀
 主な城主  伝・堀江氏
 見所  横堀・土塁
 おすすめ度  ★★★
整備された道   なし
主郭まで   登城口より5分
登城難易度  2
駐車場   なし

内神城が位置する城山 
低丘陵上に位置する。
 アクセス
三田西インターCHを降りて左折し県道92号に入ります。
200m先のテクノパーク前(交差点)を右折し県道720号 に入ります。
約1Km進むと中内神交差点がありますが、左手に見える林が内神城がある丘陵です。
登城口は中内神交差点を左折し50mほど進んだ場所をさらに左折し100mほど行くと丘陵に入る道があります。または内神城がある丘陵側の県道720号線沿いの歩道より延びるガードレール沿いのコンクリート道を50mほど進み直登する方法もあります。後者の方がわかりやすいかもしれません。

 訪城記録
内神城は中内神集落の西北に位置する城山に築かれています。
登城口より竹林の中を進むと複雑な地形が続き、やがて分厚い土塁を開口させた外郭部の虎口が見えてきます。
前面は急な切岸となり、それに付けられた道を登ると内神城の主要部に入ります。主要部は東側を除き緩斜面となっているため北・南・西側は深い空堀によって守られています。
最高所で北端に位置する主郭から見て行きたいと思います。
主郭は長方形の形状で尾根続きの北側、緩斜面の西側は空堀によって守られています。
北側・西側の塁線の一部は張り出し、空堀内に入った侵入者に対する横矢掛けの仕組みとなっています。
主郭南東の虎口を出て南西に向かうと二の曲輪となり、その東側が、三の曲輪となります。いずれも広い面積を有する駐屯空間となっています。主郭の虎口を出て東側に向かうと土塁に囲まれた四の曲輪となります。四の曲輪の南東およひ三の曲輪の東側はL字状に空堀と竪堀を組み合わせた技巧的な堀が掘られています。
四の曲輪の北側は五の曲輪となりますが、その北側には深い竪堀が掘られ東側斜面の移動を阻害しています。
2020年12月26日訪城

縄張り図 掲載書籍 
光祥出版『図解近畿の城郭Ⅰ』342~343ページ


 歴史
地元に伝わる内神城の城主・堀江氏は当地の有力豪族で、室町時代から戦国時代にかけて赤松氏庶流の有馬郡守護・有馬氏に数代にわたり仕えた。有馬氏の被官としては、郡内支配に関わる文書の発給などにも携わった重臣で、16世紀初頭に主家・有馬氏の祈祷所・播磨清水寺との取次ぎをした文書等が残されている。播磨・清水寺に対しては堀江氏自体も15世紀末に「内上堀江雅久」の名で田地を寄進し、寄進地の保護も行っている。この「内上堀江雅久」の名が内神城と堀江氏を繋ぎとめる傍証となっているのかもしれない。
天正年間には荒木村重によって主家・有馬氏は滅ぼされたと考えられ、堀江氏の名も登場しなくなる。
技巧的な縄張を持つ内神城は堀江氏が活躍した室町時代~戦国時代のものとは考えられず、戦国時代末~織豊期のものと指摘される。堀江氏と同じく有馬氏の被官であった諸氏の城と比較しても異質なものである。内神城から東へ約3kmの位置に下井沢城跡がある。現在、城跡は改変によって当時の面影は残さないが、明治の頃に描かれた村絵図では単郭方形の城館であったことが知られている。堀江氏の菩提寺・興徳寺が建ち中世の五輪の塔が数基残るなど堀江氏との繋がりを考えれば、この下井沢城が堀江氏の居館だった可能性も高い。
天正6年、荒木村重は織田信長に背き村重配下の荒木重堅が三田城に籠城した。明智光秀は三田城攻めに動員され、その際に光秀により兵站拠点を兼ねた陣城として築かれたのが内神城だったのではないだろうか。
登城口位置 ページ下部にマップ添付

おすすめ度はが多いほど見ごたえがあり、最高★★★★★まで
登城難易度は数値が多いほど城へ到達する距離、
時間、困難さを示します
数値1~5
上記各種データの説明はコチラをクリック→
上記 データの 説明     





分厚い土塁 
中央部が開口する。 

深い空堀
 主要部は深い空堀に囲まれる。

主郭
近年整備されたようである。
 

主郭西の空堀 
緩斜面は空堀で処理する。
 
主郭の塁線の張り出し
横矢を掛ける仕組み。
 
 
二の曲輪
縦に長い長方形である。
 
 
三の曲輪
広い削平地である。
 
四の曲輪
土塁によって囲まれている。
 

L字状の堀
竪堀と空堀を組み合わせている。
 
 
竪堀
東側斜面の移動を阻害する。
 
 
登城口
まっすぐ突き当りを左にいくと登城口がある。
 
 

内神城登城口