城郭ドットコム   甲賀の城へ  


 

水口岡山城本丸
 
最高所に位置し東西に広く
廃城時念入りに破却された

 水口岡山城とは

甲賀郡は戦国時代、甲賀郡中惣と呼ばれる武士団の同盟体が存在した。
郡中惣は多くの城郭を形成し甲賀郡を支配していた。
やがて戦国時代後期に織田信長により弱体化され、羽柴秀吉
(後の豊臣秀吉)により雑賀水攻めの不手際を咎められ、1585年武士団は改易され消滅した。
甲賀郡の支配の為に羽柴秀吉によりこの地へ転封された
中村一氏が同1585年にこの水口岡山城を築いたと伝えられる 
その際 大溝城や三雲城の資材が転用されたという 1593年
中村一氏が駿河府中へ加増転封となり増田長盛が入り1595年に大和郡山に転封となると豊臣氏五奉行の一人 長束正家が入城した。 
1600年長束正家は関ヶ原の戦いで西軍に属し敗北 水口岡山城まで退却し籠城したが池田長吉、亀井玆矩に欺かれ城外へと出て自害して果て 水口岡山城は廃城となった。その後 江戸時代に水口城の築城の際、水口岡山城の資材が転用されたという    
 訪城紀行

甲賀市の中心に位置し交通の要衝である、
甲賀市水口町水口の古城山(標高283m 比高100m)の山上に所在する。
戦国時代後期に築城された織豊式城郭で、現在は西側からの登城口には専用駐車場がある。
県立自然公園郷土の森として整備され、 その縄張りは山上最高所に東西に広い本丸を置き西に堀切を隔てて西郭 東側に二ノ郭、三ノ郭が堀切を隔てて連なる。さらに東に高い切岸が残る四ノ郭が残る。その二ノ郭、三ノ郭は帯郭を介して本丸へと連結する。 本丸は廃城時に念入りに破却されているが、本丸を除く各郭や堀切、切岸は遺構の保存状況がよく、特に四ノ郭の切岸は高く急峻である 石垣作りの城であったと思われるが
廃城時の破却や水口城築城の際に石垣は転用されたと思われ
現在は石垣は一部を残すのみである しかしながら本丸部の破却や石垣の転用などがあったとはいえ規模の大きさや遺構の保存状況、織豊様式の技巧的な縄張りが残っており中世から近世への過渡期の山城遺構を見学することができる
       
 アクセス方法

国道1号線を草津方面から甲賀方面に走り、水口町の名阪信号より県道549号線を約1km走り国道307号線に入ります。
そこをさらに300m程直進すると左手に専用駐車場と登城口があります。

ページ下部に登城口位置マップ添付

所在地 滋賀県甲賀市水口町水口 
形式  連郭式山城
現状  公園
築城年代  戦国時代後期
遺構  郭、土塁、石垣、堀切、虎口等
主な城主 長束氏 
見所 堀切、切岸、郭
 おすすめ度 ★★★ 
 登城道整備  
 主郭まで  駐車場より15分
 登城難易度  
 駐車場 専用駐車場有 
最終訪城日 2010年1月17日 

おすすめ度はが多いほど見ごたえがあり、最高★★★★★まで
登城難易度は数値が多いほど城へ到達する距離、
時間、困難さを示します
数値1~5
上記各種データの説明はコチラです→
上記 データの 説明

本丸切岸

状態良く保存されている

本丸と二ノ郭間の堀切

北側は土橋のように繋がっている

二ノ郭
 
丸の東に位置し
城の資材と思われる石塔が残る
 

三ノ郭

堀切を隔てニノ郭の東に位置する

四ノ郭
 
三ノ郭の東側に位置する 

四ノ郭の切岸

高く急峻である

帯郭
ニノ郭と三の郭は
帯郭を介し本丸と繋がる

西郭
本丸の西に小郭と堀切を介し西郭が残る

西郭の堀切
堀切より空堀形状に近い
 
石垣跡
城内には所々に石垣跡が残る