奥谷城遠望 高城山から派生する南西尾根丘陵上に 奥谷城は築かれ、別名・蕪丸とも呼ばれる |
丹波・波多野氏は石見の出身 奥谷城は篠山市殿町の高城山から南西に派生する丘陵上に所在する。 この奥谷城を築いたのは波多野清秀とされる。 清秀は石見国の出身で吉見氏の一族である。 寛正元年(1460年)齢十八の時に石見より京に入洛し細川勝元に仕え 主君・細川勝元の命で母方の姓・波多野氏を名乗った。 応仁の乱の戦功で波多野氏、多紀郡を与えられ、奥谷城を築く 清秀は応仁の乱で細川勝元に従い戦い、細川勝元没後、細川政元の代に 応仁の乱の戦功の恩賞として多紀郡を与えられ、この時期に奥谷城が築かれたと 考えられる。この頃の波多野氏は決して巨大な勢力とは言い難かったようで、 その勢力と奥谷城の規模は比例していたと思われる。 波多野氏、勢力拡大と共に八上城を築き本城とする 永正元年波多野清秀の没後、元清の代に細川京兆家の分裂を利用しながら勢力を 拡大、多紀郡内の在地領主も支配下に治めていった。 この頃、多紀郡の支配拠点としては規模、比高の低さによる立地条件が不適当と 判断し、郡内を一望できる奥谷城背後の高城山に八上城を築き、奥谷城に代え、 本城とした。やがて奥谷城は八上城の出郭として取り込まれていく。 同様の例としては安芸高田市の毛利氏の居城、吉田郡山城も初期は支尾根にある 城であったが勢力拡大と共に郡山全体を城としていった。 この例は奥谷城と八上城と類似している。 波多野氏の滅亡と奥谷城の終焉 天正7年6月丹波に侵攻する明智光秀に対し 波多野氏最後の当主・秀治は投降(異説あり)し安土で処刑され、八上城は落城 この時期に奥谷城も廃城になったと思われる。 奥谷城の現遺構は戦国末期の様相を呈している事から明智光秀の丹波侵攻戦に 伴う時期まで機能していたと考えられる。
奥谷城は高城山(八上城)の南西支尾根・標高280m比高50mの丘陵上に所在する。 主郭は標高280mの最高所に置き、西側・殿町方面に向け、土塁を伴う虎口が 開いている。主郭北側は東・西斜面に竪掘を掘り、主郭南側に対する進路を狭め、 さらに北東の高城山との稜線は大堀切で遮断している。 主郭南東ははっきりと分かるもので3条の竪掘が確認され、 攻城側の南側からの斜面移動を阻害していたものと考えられる。 虎口から殿町方面である東側の斜面にはいくつもの腰郭と 平時に住まいとしていたと思われる広大な屋敷跡が残っている。 なお平成8年2月〜3月の道路改良工事に伴う発掘調査で屋敷跡のさらに下、 東側山麓において幅10mの水壕の跡が発見された。 これは屋敷跡、さらにはその詰め城としいた奥谷城が一まとまりとした 根古屋式城郭として機能していた事を示していると思われる
舞鶴若狭自動車道・丹南篠山口IC方面から国道372号を東進し 八上下信号の100m先を右折します。 奥谷川沿いに1km程南下し左手の川を渡り、 更に川沿いに300m程南下すると、左手に登城口と説明板が見えます。
おすすめ度は★が多いほど見ごたえがあり、最高★★★★★まで 登城難易度は数値が多いほど城へ到達する距離、 時間、困難さを示します。数値1〜5 上記各種データの説明はコチラをクリック→ |
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奥谷城主郭 最高所の主郭は広大な規模を誇り 特に東西は70mを測る |
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主郭虎口 山麓の屋敷跡に向け西側に虎口が開く |
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主郭北側の竪堀 東西に竪堀を配す事で進路を狭めている |
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大堀切 高城山との稜線は大堀切で遮断する |
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主郭南側の郭 主郭の南側には、一段・腰郭が残る |
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屋敷跡 広大な屋敷跡が山麓に残っている 2012年に訪れた時は竹林は伐採整備され 上記の写真より相当見やすくなっていた |
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登城口 登城口には案内板が設置されている、 |