大木城主郭Ⅰ 現在は神社が建てられている |
大木城は西脇市大木町字平野山の山塊に所在する。 黒田荘の黒田重勝の弟・光氏が野中六郎を名乗り野中城に居住したと伝えられ この野中城が大木城に比定される。 現在残る遺構は15世紀初頭、室町時代の野中六郎の頃より幾分年代は下り 16世紀中頃以降の天文〜永禄期に改修を受けたものと考えられる。 戦国期・永禄年間には大木城の所在する富田荘まで野間山城の在田氏が 進出している事から、在田氏による富田荘の軍事拠点としての改修も考えられる。
杉原川沿いに築かれた大木城 杉原川沿いの西端、標高164m・比高84mの丘陵上に大木城は位置している。 大木城の位置するこの場所は富田荘野中郷と呼ばれ、大木城の別名を野中城と 呼ぶ。野中六郎の名も、野中郷から由来していると考えられる。 主郭 主郭は南北30m、東西20mで楕円形の形状を成し、郭内の東端には 帯郭への虎口が開く。現状・神社の境内となっており、郭内には段差が認められ るが、境内の造成時に改変された可能性も考えられる。 大木城は野中六郎が居住したと伝えられるものの、生活の利便性が悪く、実際に 居住していたとは考え難い。大木城は富田荘一帯を見渡せる条件から、富田荘の 支配と防衛の軍事拠点として築かれたと考えるのが妥当であろう。 主郭を周回する帯曲輪Ⅱ〜Ⅲ 主郭は帯曲輪が周回する。この帯曲輪は戦国期、天文〜永禄年間にかけて増設された部分と考えられ、通路を兼ねている。 北側の堀切 曲輪Ⅱの北側は小規模な堀切があり、大木城北側山塊との尾根筋を遮断している。 なお主郭と曲輪Ⅱの間の切岸は自然地形をわずかに整えた程度の低いものとなっている。 曲輪ⅳ 曲輪ⅳも通路を兼ねた帯曲輪となっているが、部分的に広い面積を確保した部分が見られる。(曲輪Ⅴ、曲輪Ⅵ)室町時代の城郭を戦国時代に鉢巻状の帯曲輪に改修した痕跡と捉えるのも良いかもしれない。 神社として整備された大木城 大木城は廃城後、主郭を神社として整備されてきた。現在、登城口から登る道は、 神社への参拝道で、本来の大手道とは無関係である。主郭からは南側に向けて 一直線上に登城道へ道が続くが、この道も切岸を破壊し作られた後世の破壊道で ある。 大木城は神社化こそされているが多数の遺構を残し、黒田氏系図の野中六郎の時代 から、戦国期の遺構への変遷を追う楽しみを与えてくれそうである。
国道427号線、市原交差点を右折後300m程直進し、小さい交差点を左折すると 右側にグランドが見えます。そのグランド脇に登城口と案内板があります。
おすすめ度は★が多いほど見ごたえがあり、最高★★★★★まで 登城難易度は数値が多いほど城へ到達する距離、 時間、困難さを示します。数値1~5 上記各種データの説明はコチラをクリック→ |
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主郭北の曲輪Ⅱ 切岸は低く自然地形を僅かに加工している |
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北方の堀切 A 北側山塊との尾根筋を遮断する |
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主郭南東曲輪Ⅲ 帯曲輪の一部となっている |
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西端の曲輪ⅳ Ⅲ曲輪と同様に帯曲輪の一部となっている。 戦国時代以前からの曲輪の転用か |
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登城道(参拝道) 神社からの参拝道となっており、途中からは ほぼ一直線で大木城主郭に向かう |
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大木城・遠望 比高84mの山塊突端に位置する |