
①石垣を用いた虎口
石垣を用いて、僅かに食い違う
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天正9年(1581年)明智光秀が丹波計略を完遂した後に、周山街道のルート上に丹波支配の拠点城郭として築いた。
天正10年(1582年)光秀は、本能寺にて主君織田信長を襲撃し殺害した。
信長の死を受け、毛利氏と交戦中であった羽柴秀吉は、備中高松より反転し、光秀と山崎の地で激突した。光秀は敗れ去り、京・小栗栖の竹藪で土民の手に掛かって、非業の死を遂げたという。
光秀の所領を集中に収めた秀吉は、立地と要害性を評価し、周山城を継続整備した。
『兼見卿記』には、天正12年(1584年)、秀吉自身が「丹州シヲ山の城」へ下向したという記述があり、防備の見回りに訪れていることがわかる。
この後、周山城の名は歴史の表舞台から消える。必要性が失われ、廃城になったのであろう。
京都市右京区京北周山町の城山(標高480m比高220m)に位置する。
城内には京都一周トレイルのコースが通り、登山道は歩きやすくなっている。
登山道に従い尾根筋に到達すると、左手方向が主郭方面となる。
ルート沿いに歩くと、やがて、石垣を用いた一折れして入る虎口①が見える。
虎口内部は、広い削平地が広がる。そのまま西側方向へと進むと、石垣の残石②が右手に見え、同様に一折れした虎口③がある。
虎口より進むと内部は両サイドに崩れた石垣を持つ東西に長い郭④となっている。
西端は主郭へと入る枡形虎口⑤となり、枡形虎口内部には、瓦片⑥を見ることができる。
主郭⑦は方形状で周囲を石垣で固めている。南寄りに土塁を用いた天守台⑧があり、地階を持つ構造であったと考えられている。
主郭南西の尾根には枡形虎口を持つ郭⑨と登り石垣⑩が見られる。
登り石垣の末端は腰郭が連続している。
主郭西側の尾根は状態の良い石垣⑪が残り、周山城で最も見所の場所である。
その先は堀切を介して、土づくりの陣城へと繋がっている。
京都市内から国道162号線で、周山町に入ります。
ウッディ京北前の四差路を左折し、国道477号線に入り弓削川を渡ります。
突き当りの信号を右折し、250m先の京都トレイルの目印がある場所をを左折し、直進したところに登城口があります。下部に登城口位置 地図記載
所在地 |
京都府京都市右京区京北周山町城山 |
形式 |
山城 |
現状 |
山林 |
築城年代 |
織豊期 |
遺構 |
石垣、郭、土塁、虎口、堀切 |
主な城主 |
明智氏 |
見所 |
石垣 |
おすすめ度 |
★★★★ |
登城道整備 |
有り |
主郭まで |
登城口より35分 |
登城難易度 |
3 |
駐車場 |
ウッディ京北に有 |
訪城日 2015年10月17日 |
おすすめ度は★が多いほど見ごたえがあり、最高★★★★★まで
登城難易度は数値が多いほど城へ到達する距離、
時間、困難さを示します。数値1~5
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