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常山城本丸
 
常山山頂に位置し、石垣や郭内には
腹切岩などが残る。広さ 50m×37m
 常山城史

常山城は玉野市の常山 山上に所在し、室町末期の文明年間に児島の国人 上野氏が築いたと伝えられる。戦国時代末の城主 上野隆徳は備中の三村氏と血縁関係にあり三村氏にとって宿敵である備前の宇喜多氏に対する構えとしての重要拠点として常山城は存在していた。
三村氏は安芸の毛利氏に従い備中一円の戦国大名として勢力を拡大していたが、三村氏は毛利氏と宇喜多氏が同盟を結んだ為織田信長と組み毛利氏に反旗を翻した。
その為1575年毛利氏は三村氏を滅ぼし、常山城にも三村一族掃討の為、毛利の大軍が攻め寄せてきた。
城方は二百余りの兵で籠城し鶴姫や侍女も奮闘したが戦いは凄惨を極め壊滅。 
城主 上野隆徳は自刃し落城した。
毛利氏は城番を置いた後に常山城は宇喜多氏に譲られた、常山城には家臣の戸川氏が入った。1579年宇喜多氏は毛利氏を離反し織田信長に属した為、度々毛利氏に常山城は攻められるが撃退している。
1600年関ヶ原の合戦で宇喜多氏が改易されると備前国主 小早川秀秋の家臣の伊岐真利が入った
1603年小早川家断絶後 池田忠継は常山城を廃城とし、その資材を下津井城の改修に使用した。




 常山城の縄張り


常山城は常山山上に築かれた連郭式山城であり本丸より2方向に郭を連ねる縄張りである。
本丸より北側に向け、北二の丸、北三の丸、天神丸、青木丸、栂尾二の丸、栂尾丸と連ね、
本丸より東に向け東二の丸、東三の丸、矢竹の丸、矢竹二の丸、惣門二の丸、惣門丸と連ねて逆V字型に郭が配置されている。
また本丸南には兵庫の丸と称される腰郭が存在し本丸より北東方向に底無し井戸と呼ばれ、今でも満面の水を湛える井戸が残っている
現在 栂尾二の丸は駐車場となり、その他もある程度後世の建造物もあるが随所に石垣などの遺構が残り、千人岩や本丸に腹切岩など常山合戦に因む伝承の残る遺跡も存在している。
また北二の丸には常山合戦で戦死した鶴姫と侍女の墓がひっそりと建ち並び凄惨な戦いの跡を物語っている



 アクセス方法

国道30号線字藤木の交差点から山麓の町への道へ入ると常山城への案内板が出ている。
ページ下部に登城口マップ添付

所在地 岡山県玉野市字藤木
形式 連郭式山城
現状  山林
築城年代  室町時代後期(文明年間)
遺構  石垣、郭、土塁、井戸他
主な城主 上野氏
見所 郭、女人軍墓、石垣、井戸
 おすすめ度 ★★
 登城道整備  有り
 主郭まで  登城口より50分
 登城難易度  4
 駐車場  
訪城日 2009年3月11日

おすすめ度はが多いほど見ごたえがあり、最高★★★★★まで
登城難易度は数値が多いほど城へ到達する距離、
時間、困難さを示します
数値1~5
上記各種データの説明はコチラをクリック→
上記 データの 説明      

腹切岩
 
上野隆徳が、ここで自刃したと伝えられる

北二の丸
 
曲本丸北側に位置しさらに北側に郭を連ねる
 
鶴姫と侍女の供養墓
 
北二の丸の鶴姫と侍女の墓にはいつ訪れても献花がされていた

惣門丸
 
大手郭に該当すると思われる
 
惣門二の丸
 
惣門丸西側(背後)の郭で土塁が残る
 
上野隆徳の碑 
本丸内には上野隆徳の碑が建てられている

底無井戸
 
今でも水は枯れる事が無い  
 
千人岩
 
城方の退路を絶つ為、毛利方は
 兵 千人をこの岩の上に配置したと伝わる
 
栂尾丸の石垣跡
石垣跡は一部が残るのみとなっている
 
説明版及び縄張図 
栂尾丸にある駐車場では案内板と縄張図がある