①主郭
東西30m南北15m
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丹波篠山市瀬利の八百里山に築かれた中世城郭で城主は畑氏である。
丹波・畑氏の祖は、武蔵国の住人で新田義貞に従って各地を転戦し活躍した畑時能と伝わる。
時能は興国2年(1341)に越前で北朝方との戦った際の傷がもととなり死去。その子、時速が綾部の江田行義に伴われて多紀郡に訪れ、土着したという。
八百里城は時速の子、能道が当地に築いたのがはじまりといわれる。
室町時代、畑氏は守護・細川氏に属し、その後、戦国期に至り波多野氏が台頭してくると、それに従って多紀郡の有力国人へと成長した。
天正3年(1575)からはじまる織田方の明智光秀の丹波計略では畑氏は一貫して波多野氏と行動を共にする。
赤井氏の黒井城を攻撃していた明智光秀が波多野氏の裏切りによって敗走した際は、畑荘の北にある三岳を超えて鼓峠で明智方を待ち伏せた。
鼓峠から京へと敗走しようとしていた明智方は畑氏の軍勢に散々に打ち破られたという。
再び、光秀は波多野氏の城も攻略対象に入れて、侵攻を再開する。
波多野方の諸城は相次いで陥落し、天正7年(1579)10月、波多野氏本拠の八上城も陥落し波多野氏は滅亡。
八百里城にも織田方は攻め寄せるが畑氏は、なおも抵抗し激戦を繰り広げた。
しかし、兵力差の劣る畑氏はやがて追い詰められ、当主・守能をはじめとした八百里城の兵は織田方に対し最後の突入を行った。
守能の長男・守国、次男・能国は戦死し、八百里城は落城。守能は母子の永沢寺に落ち延びた。
守能は剃髪し老牛と称し、その後、高野山にのぼり余生を送ったという。
八百里城は落城後、再建されることなく廃城となった。
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波多野氏の八上城の北方の八百里山(標高442m・比高220m )山上に築かれている。
八百里城へは瀬利集落内の八百里稲荷神社より、尾根筋に向けての登山道が付けられている。
途中、祠跡、古墳、曲輪跡を経由して約40分ほど歩くと主郭①に到達する。
主郭①は東西30m南北15mの規模で、北側塁線に土塁、西端部に櫓台②を設けている。
西側は急な高い切岸で隔てられ、主郭①同様に小屋掛けされていたであろう規模の大きな③の曲輪が造成されている。
その西端部は大堀切④で遮断されているが、さらに西側にも拡張造成されたと思われる曲輪群⑤がある。
曲輪③と曲輪群⑤を隔てる大堀切は、木橋を掛けて曲輪間を往来できるようにしていたのではないだろうか。
主郭①の東側は、東西30mにも及ぶ規模の大きな曲輪⑥と腰曲輪⑦、その南東に向けてはやや削平の甘い腰曲輪群⑧が築かれている。
八百里城は山頂付近の中心部と各支尾根に築かれた曲輪群では造成・削平に差異が見られる。
中心部は削平、造成の状態が良く、支尾根に至っては削平状態が甘く自然地形を残す部分も多い。
これは主家・波多野氏の八上城の城域端部にも同様のものが見られる。軍事的緊張度のたかまりから拡張整備された痕跡と言えるかもしれない。
虎口の発達が見られず一見すると古い形態の城とも感じられるが、戦略的に必要性に迫られなかったのか、あるいは多紀郡で虎口が発達する天正年間には既に八百里城が機能をしていなかったのかは定かではない。
舞鶴若狭道篠山口インター前から県道94号線を東に向かい、網掛の信号を左折し2.2km北上し右折し県道140号線に入る。140号線から県道301号線に入り、瀬利まで約5km進み集落内に入ると八百里城の案内板が出ている。その案内板の手前の道を左折して上がったところに登城口のある八百里稲荷神社があります。
下部に登城口位置 地図記載
所在地 |
兵庫県丹波篠山市瀬利 |
形式 |
山城 |
現状 |
山林 |
築城年代 |
南北朝期 |
遺構 |
郭、土塁、堀切 |
主な城主 |
畑氏 |
見所 |
曲輪 |
おすすめ度 |
★★★ |
登城道整備 |
なし |
主郭まで |
登城口より40分 |
登城難易度 |
3 |
駐車場 |
なし |
訪城日 2016年1月6日 |
おすすめ度は★が多いほど見ごたえがあり、最高★★★★★まで
登城難易度は数値が多いほど城へ到達する距離、
時間、困難さを示します。数値1~5
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