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八上城本丸
 
最高所に在り切岸で守られ岡田丸
二の丸より一段高くなっている
 八上城とは

八上城は篠山市の丹波富士とも呼ばれる
高城山(標高460m 比高230m)に築かれた
連郭式山城である 
1508年波多野元清により築かれたと伝えられ、
築城当時は高城山西麓の奥谷城に
居城を築き次第に城を高城山に広げていった、
(奥谷城は八上城完成後は蕪丸として存続)
波多野氏は応仁の乱で細川勝元に味方し
丹波多紀郡(現 篠山市)を与えられ、
周囲の国人、土豪を従属させ
西丹波一帯に勢力を誇った 
その後 波多野氏は細川晴元と通じ
従属していた細川高国の勢力を丹波より駆逐し
一時は畿内を制圧する勢いであったが
浦上村宗の支援を受けた細川高国が
勢力を盛り返し波多野氏は丹波を除き
畿内の勢力を失った。
やがて三好長慶に敗れた細川晴元が
将軍を擁し奥谷へ逃避してきた為、
三好勢に執拗に八上城を攻められ、
幾度となく守り抜いた八上城もついに落城した、
その後 松永久秀により八上城は奪取されるが
1566年波多野晴通、秀治父子により
八上城は奪還された。
1575年6月織田信長の配下、明智光秀による
丹波黒井城攻めが始まり波多野氏は当初、
明智光秀に従い出陣したが
1576年1月黒井城主赤井直正と通じ
光秀を背後から急襲し撃退した、
1578年3月再び丹波侵攻を進めていた
明智光秀の軍に八上城は攻められ、
波多野氏の配下の城、
籾井城細工所城
淀山城、八百里城なども明智軍に攻められ落城し
八上城内の兵も長期の籠城で飢餓に苦しみ、
草木を食べ、軍馬をも食らい飢えをしのいだが、
和議と偽り光秀の母を人質に城へ入れ、
波多野兄弟が和議のため安土へ向かうという
謀略にはまり、波多野兄弟は捕らえられ
安土に送られ磔にされた、
城内の兵は激怒し
光秀の母を松の木に磔にし
殺害したという
(八上城内で城内の兵の裏切りがあり波多野兄弟は
捕らえられたとも云われ、現在はこちらが有力説)
その後、明智軍により八上城は攻撃され
1579年6月八上城は落城した
偶然か又は因縁であるかのように
落城3年後同月に織田信長は
明智光秀により本能寺にて暗殺されている。
明智氏による落城後 明智氏は八上城に
並河飛騨守を守将に入れた、
1582年明智氏の滅亡後 羽柴秀勝の属城となり
秀勝移封後、丹波亀岡に入封した前田玄以の
属城となり、玄以の死後、八上城には
玄以の子 茂勝が入ったが重臣を殺害し出奔し
常陸笠間より松平康重が入ったが、
天下普請で篠山城が築かれ
松平氏は篠山城に移り
八上城は築城後約百年の時を経て廃城となった。

 訪城紀行

丹波の戦国大名波多野氏の居城である八上城は
高城山 山上を中心に
支尾根に渡るまで郭や砦が築かれており、
その規模は壮大で、周囲の山々には
法光寺城などの支城が築かれている。
登城口は春日神社奥の主膳屋敷より
登りやすい道が続き、
尾根筋の鳩ノ巣砦などの砦群を通過し
右衛門丸、三の丸、二の丸を経て本丸に到達する 
山上主要部は最高所に本丸を配置し
西に向けて二の丸、三の丸等の郭群を
連郭式に配置し、その先の尾根筋にも
砦群を配置し本丸南西、及び南東にかけても
堀切、郭を配置し防御する壮大な縄張りである
八上城の見所は各所様々あり、
本丸や右衛門丸に残る石垣を見るのも一つであり
又、歴史的伝承が好きな方は本丸南に
落城時に財宝を隠したとも
姫が入水自殺を図ったとも伝わる朝路池、
その北東の郭群には
明智光秀の母を磔にしたと伝えられ、
今は朽ち果てている磔松など、
城好きの人や歴史好きの方どちらにも
楽しめる遺構が八上城に残されている



 アクセス方法

国道372号線を福住(亀岡)方面から
八上方面に向かい八上内の信号の
すぐ次の路地を左折し道なりに走ると
古美術店があり
その脇に登城口がある春日神社があります。
ページ下部に登城口位置地図添付


所在地 兵庫県篠山市八上上 
形式  連郭式山城
現状  山林、神社
築城年代  戦国時代
遺構  郭、土塁、石垣、堀切等
主な城主 波多野氏 
見所 堀切
 おすすめ度 ★★★★
 登城道整備  
 本丸まで  春日神社より25分
 登城難易度  
 駐車場 無し 
訪城日 2009年11月8日 

おすすめ度はが多いほど見ごたえがあり、最高★★★★★まで
登城難易度は数値が多いほど城へ到達する距離、
時間、困難さを示します
数値1~5
上記各種データの説明はコチラです→
上記 データの 説明

    

本丸切岸の石垣

本丸の切岸には石垣が残る

岡田丸

本丸東の岡田丸と称する広い郭で
重臣岡田某の館跡と伝えられる

二の丸
 
本丸西にあり門の礎石が残る 

三の丸

本丸西に所在する東西に長い郭

右衛門丸の石垣
 
城主の屋敷跡と伝えられる

朝路池

落城時姫が入水自殺を遂げたとも
又財宝を隠したとも伝えられる

蔵屋敷
兵糧庫があったといわれる
 
池西番所の堀切
敵の進入路となる
尾根筋を断ち切っている
 
中の壇
尾根筋砦跡

主膳屋敷
明智氏による落城後
支配の中心となった館跡
 
 
春日神社
春日神社奥の主膳屋敷より
山上への登城道がある